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私の思春期近代映画 : 1964(S39)12月1日号:33歳
私の思春期 天知茂
大画家をゆめみた わがアドベンチュア物語

戦時色にぬりつぶされた十代、名古屋におくった多感なる日々の思い出を語る天知茂武勇伝!

サルカニ合戦の思い出

僕は三人兄弟の三番目、名古屋に生まれましたが、その当時、家はタクシー会社を経営していました。親父は会社をやっていましたので、めっぽう忙しい、その反対におふくろの方は午前中家の仕事を終えてしまうと、ひまになる……そんなひまな時間をおふくろは映画見物に当てるのが、しばしばだったんですよ。おふくろに連れていかれるのが決まって僕、それもまだもの心がつくかつかないかの年頃でした。

子供心にもよく憶えているのは映画館には楽隊が必ず入っていてバンバンバンという太鼓の音だけが、やたらと耳についていた、ということ、それと必ずといっていいくらいチャンバラの映画をみせられたということぐらいでしょうか。というのはおふくろは大の嵐寛(=あらかん)さん(編註・嵐寛寿郎)のファンだったので、当時の嵐寛さんの映画は殆ど見ていました。ですから、僕も自然と嵐寛さんのチャンバラ映画に親しんでアラカンといえば、すなわちチャンバラ映画というわけで、嵐寛さんはすくなくとも我が家ではチャンバラ映画の代名詞にまでもなってしまったんですよ。

小学校は名古屋市内の山口小学校に入りました。小学校時代の僕は身体が弱くて、とかく学校は休みがち、健康優良児からは縁遠い存在なんですね。二年生の時、学芸会でサルカニ合戦の芝居をやる予定で、毎日練習していたんですが、当日になって熱を出して劇に出られなくなってしまうといったように自分の身体に自信がもてなくてね……。

身体が余り丈夫ではなかったというせいもあって、自分でいうのもおかしいんですが、どちらかというと性格的にはおとなしい少年でした。図画、作文が好きな学科でしてね、好きこそものの上手なれということわざではありませんが、図画や作文は成績もよかったでしたよ。二人の兄貴も絵は好きでね、学校の教室にはり出された絵をもって来ては家の中に競争でベタベタはったものでした。小学四、五年生の頃は将来絵かきになろうか、なんて考えたこともありました。

六年生になると、太平洋戦争が始まり、何か足元に火をつけられたみたいに生活はうき足だってきちゃいましてね、正直いって、勉強どころのさわぎではありません。そんな世情の中に、僕は名古屋市内にある東邦商業に入ったんですが、何も将来商人になるためでは決してなかったのです。ただなんとなく……といった方が適切ですね。その頃、親父はタクシー会社の経営も不振になりついに会社を解散するはめになってしまいました。だからといって一家をささえるためには遊んでいるわけにはいかない、そこでタクシー会社とは縁もゆかりもない寿司やをはじめたんです。兄貴二人はすでに兵隊にとられて、戦地にいっていました。名古屋の家は親父とおふくろそれに僕の三人きり、まあいってみれば寿司やをほそぼそときりまわしての生活でした。

命拾いの防空壕事件

中学に入ってからは日増しに戦争の雲ゆきがおかしくなり、勉強どころではありません。スポーツといえば柔道、武道それに教練、ともかくスポーツはすなわち戦いに結びついたものだったんですからね。

二年になると、学徒動員で、毎日工場がよいがはじまりました。市内にあった三菱発動機にかよって、全身油まみれになって働いたものでしたが、そうなると勉強どころのさわぎではありませんよ。そんな生活を送っているとき、名古屋にはじめての空襲がやってきたんです。丁度、その日は僕たちの入る防空壕が雨モリがするので、防空壕に入って、五、六人で天井の板をはりなおしていたんですよ。昼頃でしたが、ピカッと光ったと思ったら、上からものが落ちて来て僕たちは生きうめになってしまったのにはびっくりしました。動員で働いていたこの会社にいくつもの直撃弾が落ちてきたんですよ。

さあ、大変というわけで、僕たち防空壕の中にとじ込められたものは、必死になって、落ちて来た頭上のものを中からとりのぞくことに力をしぼりました……。ほんとに死にものぐるいとはこのことをいうのでしょう。ついにやっとの思いで、防空壕からはい上がってきたのは午後の四時頃になっていましたかな……。

そんな大空襲にあって以来、僕たち家族は市内から五里程離れた瀬戸という町へ疎開しました。戦後、再び名古屋へひきあげて来て、東邦商業に復学したんですが、終戦を境にしてがらりとかわった教育方針に少なからず反撥を感じたものでした。

戦時中から戦後にかけての娯楽といえば、僕にとっては映画だけでした。そんなどさくさな時代にも映画だけはよく見たものだとは我ながら感心してしまいます。こんなところはまだもの心がつくかつかない間におふくろにつれていかれた映画館がよいが大分影響しているんではないかと思っていますがね。いちばん上の兄が復員して来ると、名古屋でキャメラ屋を開業してたんですが、僕は中学を終えると、兄の店で早速働きました。

僕の仕事というのは暗室にこもって写真の現像、焼きつけ、たまにお店に出てお客さんとの応対といったところ。現像、焼きつけもはじめはまるで素人、兄におそわりながらやりはじめたんですが、半年、一年とやっているうちには無器用な僕にもどうやら仕事らしい仕事ができるようになっていきました。

三年程、兄の店を手伝ったでしょうか、ある日新聞に新東宝映画の新人募集が目にとまり気まぐれにも応募したんです。この気まぐれが、合格してしまいスタアレットになりました。昭和二十六年、二十歳のときでした。

新東宝入社後、はじめて嵐寛さんの時代劇に出させてもらったことはほんとに不思議なまわりあわせというほかはありません。その映画を見て、何よりも感激したのは大の嵐寛ファンだったおふくろだったのです。

【写真キャプション】
・兄のお店を手伝っていた頃、18歳(前髪はらりのスーツ姿)
・新東宝スターレットに合格の頃!(だぶだぶのズボン、黒い長袖シャツを着て爽やかに歯を見せて笑っているの図)

*武勇伝やアドベンチュア、といった派手な言葉とは無縁だとはいえ、とりあえず思春期は勉強どころではなかったことだけはよく分かる記事である(なにも三回も言わんでも)。

*「五十年の光芒」の小学同窓生の方のコメントで、臼井君(=天っちゃん)はサルカニ合戦で臼の役を頑張っていた、とある(ウスイだけに臼、なのかどうかは不明)。頑張っていたのに本番に出られなかった可哀相なノボル君だから余計にみんなの記憶に残っていたのかもしれない。

*防空壕事件に関してはこちら(「ビデオテープ」)にも詳細あり。

*松竹大部屋時代は無かったことにしている頃なので(芸能生活○十年、を唱えだしたころから数え始めた模様)薫兄さんのお店に3年いたことになっているようだ。

(2007年3月25日)
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