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シリーズ家族週刊平凡 : 1979(S54)11月8日号:48歳
シリーズ 家族 第5回
家族ぐるみのささやかな仕送りがいまの天知茂を誕生させた

これほど職業に相違のある3兄弟も珍しいだろう。俳優、寿司屋、それに写真館。だから日常の交流はあまりない。
ところが、いったん何か事があると3人が結束して発揮する兄弟愛は、他に類を見ないほどだ。
天知茂には3人の兄がいる。が、長兄・臼井豊さんは、すでに昭和20年に戦死しているので、残っているのは次兄・臼井薫さん(63歳)と三兄・臼井勲さん(56歳)のふたりだ。
ふたりとも現在、名古屋市内で暮らしていて、薫さんは写真館を経営するいっぽう、二科会会員のカメラマン。勲さんはお寿司屋さん『千鳥寿司』を営んでいる。北区上飯田通りにある薫さんの家と、東区杉ノ町にある『千鳥寿司』は車で20分ほどの距離。
ふたりが会えば、どちらからともなく末弟・臼井登(天知茂の本名)のことがやはり話題になる。

薫:戦死した兄貴は、5尺8寸(約175センチ)くらいあったし、天知も背がかなりあるけど、そのふたりにはさまれたおれたちふたりが、どういうわけか小さくなったなァ。
勲:まあ、それだけ苦労したわけやな。(笑)
薫:天知はおふくろが42、おやじが46か47の子やから、子供のころから蝶よ花よと甘やかされて育った。
勲:だから小さいとき、チャンバラをやると、いつも私が斬られ役や。あいつを斬ると泣いて怒るもんでな、絶対に斬られん。(笑)
薫:そういえば、戦死した兄貴が“お泣き”っていうあだ名をつけたな。「お泣き!」、「お泣き!」って。すごい泣き虫やった。
勲:いまだに人見知りやし。
薫:恥ずかしがり屋やなァ。親が年とってからの子で、甘えて育ったのが、いまだに残ってるんだろうな。兄弟3人で会っても、そばに他人がおると、一言もしゃべらん。「あんたはいったい、いつしゃべるんだ?」と第三者がいうくらい、しゃべらんなァ。ところが他人がいなくなると、これはもうしゃべるわしゃべるわ……。(笑)
勲:表面から見るとニヒルだっていわれるけど、あれはまったく役のうえのもんじゃないかなと思うね。ほんとうは非常に情にもろいし、あったかい性格だよ。なかなかしゃべらないから、内面を見せるということはめったにないけど……。
薫:もう無口でおとなしい子だったから、悪い遊びなんて、まずしたことがないし……。
勲:いまでも大まじめやな。だいたいうちら兄弟、みんな大まじめだな。堅すぎて困る!(笑)

美男子ぞろいが自慢の天知茂一家

薫:おやじゆずりで、3人とも酒が一滴も飲めん。
勲:昔、3人でビール1本飲んでひっくり返ったことがあったな。(笑) あんたは酒もタバコもやらんけど、私と天知はヘビースモーカーや。
薫:おやじが「おれは中毒で、のまずにおれんからのむけど、こんなものはのんだらいかんぞ!」といいながら、子供の私の前でスパスパやるんだ。毒だといいながらどうしてのむんだろうと思ったけどね、でもその影響で、私は生まれてこのかたタバコだけは一度も口にしたことがないな。
勲:しかし天知がいまタバコをやめたら、ブクブクふとっちゃうよ。
薫:デブになっちゃうな。坂上二郎さんみたいになるぞ。(笑)
勲:それじゃ、あのニヒルがどっかへいっちゃうでな、俳優生命にかかわるよ。(笑)

父親・臼井豊三郎さんは、大地主の次男坊に生まれた。近所の娘たちを熱狂させたほどの美男子だったという。
「まあ20年も前の話ですけどね、あるおばあちゃんが、娘時代のことを振り返って、こんなことを証言してくれたんですよ。“天知さんもいい男だし、あんたら兄弟もかなりいい男だけど、しかし3人束になっても昔のお父さんの男っぷりにはかないませんよ”。
そのおばあちゃんがまたいうにはね、おやじが、おれは二枚目だというんで肩で風切って歩くと、ほんとに女の子がくっついて歩いてたんだて。“それで、いっぺんでいいから、あんたのお父さんにさわりたいと思ってそばへ行くんだけど、なかなかさわらしてくれないんだよ”って、それくらい男前だったというんですよねェ。そういわれて私はかなりショックを受けて、ショボショボ帰ってきた覚えがあるんです」(薫さん)

豊三郎さんは、大正10年ごろ、サラリーマンになったが窮屈な生活にいやけがさし、昭和2年、42歳のときにサラリーマンをやめ寿司屋をはじめた。“脱サラ”のはしりである。ただこの転職はかなり無鉄砲だったようだ。

寿司屋を選んだもの、食道楽の彼が寿司を食べるのが好きだったからで、自分で握るわけではない。職人をかかえての武士の商法と、おりから襲った昭和の大不況のあおりをもろにかぶって、『千鳥寿司』は3年でつぶれてしまった。

このあと豊三郎さんはタクシー会社の経営に転ずる。跡継ぎのなかった本家に養子にやっていた長男・豊さんが、本家の財産を整理して豊三郎さんと共同経営に乗り出したのだ。だがこれまたみごとに失敗。ふたたび寿司屋にもどった。そのころには薫さんや勲さんも成長して店を手伝うようになった。ところがこんどは戦争。薫さんも勲さんも召集を受けて、『千鳥寿司』は開店休業のまま終戦を迎えた。

母親は女傑で水商売向きだった

そして昭和21年、豊三郎さんは急性気管支炎にかかり、あっというまに61歳の生涯を閉じたのである。

天知茂の回想――「兄貴たちから、さまざまなおやじ像を聞かされてはいたけど、ぼく自身の記憶では、晩年、寿司屋をやってたころのおやじのイメージしかないんですね。そのときも、おふくろと兄貴ふたりが商売をやっているのに、おやじは何もやっていなかった。その兄たちも戦争に行って、両親とぼくが寿司屋をやるという状態になったんですよ。でもぼくはまだ中学生のころで、学校から帰ってお腹がすいていると、手っ取り早く寿司を食べさせられた。店が忙しいときは自分でチラシや巻き寿司を作って食べたこともあります」

豊三郎さんが死んだのは彼が中学3年のときだ。兄弟はだれも死に目に会えなかった。学校から帰った天知が障子の陰で泣いていた姿を、薫さんはいまもはっきりと覚えているという。

母親・はぎさんは「昔でいうおかめ顔、けっして美人じゃなかった」(薫さん)。だが、器用で商売がうまく、押しが強い。なかなかの女傑で、もし学問さえあれば、女代議士になっただろうと息子たちがいうほどの度量を持っていた。

それに、はぎさんがなにより天知やふたりの兄たちに影響を与えたのは、芸事が好きだったことだ。若いころ、娘義太夫に憧れて激しい修業を積んだほどである。その夢は果たせなかったが日本舞踊や俗曲なども習い、芸に対する情熱を失うことがなかった。

「天知を応援していたのも、あるいは自分の見果てぬ夢を弟に託したのかもしれません。そのおふくろの熱意を見て、わしはもう協力しなきゃいかんという気になったんですね。やっぱり天知をここまでした最大の原動力というのはおふくろですよ」(勲さん)

兄弟愛に支えられて病を克服

薫さんが陸軍飛行隊の演芸大会で坂本竜馬を大熱演したのも、勲さんがパラオの海軍基地で、演芸隊長に推され、得意のハーモニカで『安来節』や『大漁節』の伴奏をして大喝采を博したのも、はぎさんの血が脈々と流れていたからである。

このはぎさんはことしの3月6日、90歳の長寿をまっとうした。亡くなる1週間前まで、おむつをあてられることをいやがり、支えられながらトイレを通ったほど気丈な女性だった。どこに病気があったわけでもない。ただ老衰ということのために、木が枯れるように、スーッと息をひきとった。

天知が芸能界に入ったのは、昭和24年である。勲さんの奥さん・繁子さん(55歳)のコネで松竹京都撮影所の大部屋に入った。だが、鳴かず飛ばずの2年間がつづいた。ある時代劇で捕り方をやり、「御用!」、「御用!」とやっているうち頭から水をぶっかけられた。これがもとで急性肺炎に。当時1本1000円という高価なペニシリン注射をうたせるために、薫さんと勲さんは、働きづめに働いては金をつくり、京都で病の床にある天知へ送った。

終戦直後にはじめたほうき屋はすでにやめ、臼井家は三度お寿司屋さんにもどっていた。この2代目を継いでいたのが勲さん。薫さんは好きな写真の道で生きるため、すでに独立していた。勲さんはときにはネタの仕入れ先である魚屋に払う金まで天知へ送金するという苦心のやりくりがつづいた。

こうした兄弟の送金で買えた7本のペニシリンによって天知は死地を脱した。だがようやく病気が治って名古屋へ帰った彼の体は、骨と皮ばかりになっていた。

その後、名古屋でアマチュアの8ミリ同好会に頼まれて、“8ミリ俳優”をしていたことがある。が、やはり映画俳優への夢が捨てられず、新東宝のニューフェース募集に応じたのが昭和26年である。

このときいっしょに入所したのが高島忠夫ともうひとり、名古屋出身の女優。ほかでもない、現天知茂夫人の友季子さん(46歳)だった。

4年間毎月5000円の仕送りを

「いよいよ入所式に親代わりの私もほかの親ごさんといっしょに呼ばれたんですが、新東宝ではこういうんです。“これから新しく俳優を育てるにはたいへんなお金がかかる。しかも海のものとも山のものともわからないものに投資するには限度があり、会社としては月にひとり5000円しか出せない。あとは親のほうでやってもらわなければなりません”。
ほかのかたたちは“よろしゅうございます”といわれたけれども、はっきりいってそのときおれは即座に返事ができなかった。
当時5000円というのは、東京で下宿して、朝めし食って5000円なんです。あと小遣い銭と昼めし、晩めしで5000円は送らなければならん。待てよ、わが家の経済は四苦八苦の最中じゃないか。だけどせっかくここまできて、5000円のためにご破算になったんじゃしゃくだ。“まあなんとかなるでしょう”なんて大見得切って引き揚げたんですがね、それからがたいへんでした。おふくろともども兄弟協力して、なけなしのゼニを送ったもんですよねェ」(薫さん)

天知は名古屋のおふくろとふたりの兄が、4年間毎月、苦しい家計の中からやりくりして5000円の送金をしてくれていることをよく知っていた。
それだけに彼は、兄たちからの仕送りなしに自活できる日を待ち望んでいた。

だが、薫さんと勲さんによれば、痩せてエラの張った顔と、笑うとニッと出る八重歯が天知をスターにするのを遅らせたという。体がふとりだし、八重歯を抜いて天知の魅力があふれ出した。

それまでの端役から、はじめて主役に抜擢されたのが昭和29年の『恐怖のカービン銃』である。

天知茂の回想――「主役が決まったときうれしくて実家に電報を打ったんだけど、それが《シュヤクキマッタ カネオクレ》だったんです。
月々、苦しい中から仕送りをしてくれていた実家に、なおかつ金を送ってくれとは、私もいまにして思うとたいへんな甘さを持っていたんですねェ。つくづく気恥ずかしいと思いますよ」

それから早くも25年。いまや押しも押されもしない大スターである。5回つづいた名古屋の『御園座』への“凱旋公演”もここ4年ばかりとだえたが、来年の7月には久しぶりの御園座公演が予定されている。

薫さんと勲さんは、そのニュースを聞いただけでも仕事が手につかなくなるほどの興奮ぶりだ。

3人で『御園座』に出るのが夢

薫:おまえも昔、シナリオを書いたやろ。
勲:寿司屋で食うに困ってた時代に、天知が1本書けっていうんで160枚ばかり書いたことがあったな。30本ばかり企画会議に出たらしいけど、忍術を主体にしたシナリオだったためにはねられた。あのとき売れてたら、ひょっとしたらいまごろは……。(笑)
薫:当代売れっ子のシナリオライターになってたかもしれんぞ。惜しいことしたなァ。(笑)
勲:なんか1本、シナリオ書いて、天知にやらして、こっちも出演する、というの一度やってみたいなァ。
薫:おれたちのしろうと芝居に天知は“特別出演”としたほうがええぞ。お金をとるわけにもいかんし。
勲:どうしても一度、舞台でやりたいのは『国定忠治』やな。
薫:いやあ、やりたいなァ、あれは。しょうがない、忠治は天知にやらせるか。で、おれは御室の勘助やるでえ。
勲:地でいくか。(笑) 板割浅太郎がいねえなァ。
薫:おまえが浅太郎をやるにはちょっと老けすぎちゃったなァ。もうちょっと若けりゃ、おれが忠治やってもいいけどなァ。
勲:いや、まだ、若づくりすればいけるで!(笑)
薫:しかしセリフがちょっとむずかしいな。
勲:でもあれはだいたい七五調でいけるで、新国劇で……。
薫:そうとう舞台稽古が必要やな。
勲:どうせやるなら、『御園座』でやったらどうや、ワッハッハ……。

名古屋には『中日劇場』も『名鉄ホール』もある。だが、天知が子供のころからはぎさんに手を引かれて通ったのは『御園座』だった。いらい天知の夢は『御園座』の舞台に立つことだった。それは同時にはぎさんの夢でもあったはずである。この夢はすでに叶えられた。しかし、いま兄弟が冗談まじりで描く、3兄弟の御園座共演の夢は、ただ白昼夢とばかりはいえない。志がひとつになったとき、この3兄弟は、驚異的な結束力を見せてきたからだ。もしもそれが実現したとき、だれよりも目を細めるのは、地下のはぎさんではないだろうか。

【写真キャプション】
・「おやじには過保護に育てられました」と『江戸の牙』の扮装のまま語る天知茂(作りは剣さんだが表情は「素」っぽい)
・同じ名古屋市内に住んでいても会う機会の少ない兄たちふたりだ(名古屋タワーをバックに、腕組みする薫兄さん&寿司屋の大将ルックの勲兄さん)
・昭和20年に戦死した長兄・豊さん(目鼻立ちのくっきりした偉丈夫)
・弟・天知のことになると話が尽きない三兄・勲さん(左)(薫兄さんと一緒にアルバムを見ている勲兄さん)
・いまは亡き両親、勲さんと(中央が天知茂 4歳のとき)(和服のお父さんの前に立って、隣のお母さんのお膝をきゅっと握っているセーラー服のノボルくんがキュート)
・両親健在で寿司屋を経営していたころ(右端が天知茂 9歳のとき)(絣の着物でイガグリ頭のノボルくん、勲さん夫婦と一緒に)
・「家族の支えがあってこそいまのぼくがあるんです」(ドット柄ワイシャツで白い歯を見せて微笑む天っちゃん)
・雪之丞の扮装をした天知茂(小学校3年のころ)(紅を差し、実に色っぽい目つきの女装姿!)
・新東宝のニューフェースだったころの天知夫妻(肩を抱き、爽やかカップルを演じている風)

*末っ子で、いくつになっても兄さん連中に大いに甘やかされている天っちゃんのことが良く分かる記事である(でもほんとに少年時代は可愛らしいんだよなあ!)

*兄弟3人の共演は「狼男とサムライ」で実現している。

(2007年7月24日)
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