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奥さんこんにちは週刊平凡 : 1978(S53)5月11日号:47歳
奥さんこんにちは 第196回
天知茂(本名・臼井暢浩47歳)夫人 臼井友季子さん(45歳)

気学に凝っている。転居するのも、家を改築するのも、これに従って“独断専行”。主人である天知茂の希望も無視されてしまった。

*この頃の奥様は気学に凝るあまり、ご自分の名前だけでなく旦那の本名まで変えてしまっているようだ(天っちゃんの本名は「登」、奥様は「純代」さんが定説)

自慢の広い駐車場と26畳の客間

住まいが東京・世田谷区深沢1丁目。閑静な住宅地で、近くに鶴田浩二、池内淳子、ちあきなおみなども住んでいる。
ここへ家を建てたのが6年前。転居と家を建てるにあたっては、友季子さんが凝る気学に負うところが大きかったそうだ。
「弟の嫁が亡くなりましてね、そういうことがありますと、なんとなく気にしますでしょう。転居とかお家を建てるとか就職とかは、一生に何度もあることじゃありませんしね。そういうときはやっぱり、昔の人の統計というんですか、いいといわれるほうに従ったほうがいいんじゃないかと思うんです。
主人なんかも、実力とかそういうことじゃなくて、目に見えない人気のようなものに支えられておりますから、やっぱりそういうことをだいじにしたいと思いましてねえ・・・」
家の設計について天知茂はもっと別のことを考えていたらしい。たとえば、ガレージが前にあって、母屋がひっこんでいるというようなもっとモダンな造り・・・。だが友季子さんはその設計を気学に従って大幅に変えた。
「ちょうど主人が大阪かなんかの舞台へ行ってるときだったもんですから、その間に主人をだまして、パッとこういうふうにしちゃったんです。(笑)
長年、主人は家事を私にお任せでしょう。それを私が一生懸命やってきた実績みたいなものがありますから、それができたんですけど・・・」

駐車場が広く、2階の26畳の客間があるのは、この家を訪れる客のためだ。天知も友季子さんも客が好きで、ここにはよく大勢の仲間たちが集まる。
だが天知は酒が飲めない。といって主人が一滴も飲まないのでは客がしらけるので、そんなとき彼は接客用の“特製水割り”を飲む。それは一見、ウイスキーの水割りと寸分違わない色のリンゴ酒だ。氷を見せてオンザロックに見せたり・・・。
「主人はね、ものはいえないんですけど、歌をうたうことが好きで、もうみなさんにサービスしてうたいっぱなしなんですね。『マイ・ウェイ』から都々逸から小唄から・・・いろいろ、なんでも。(笑)
そうかと思うと下の部屋ではカードをやってたり、こっちの部屋ではマージャンやってたり・・・楽しいですよォ」

人気ある中華チマキとおでん

この家に客が争って集まるのは、パーティーの楽しい雰囲気もさることながら、友季子さんが作る手料理のせいである。
もっとも人気があるのが中華チマキ。もち米をアルミホイルで巻いてふかすこのチマキを、友季子さんは、パーティーがあると200個も作る。
「チマキとちょっとしたオードブル、たとえばやきとりとか一口かつとか、あとはね、大勢のときは、おでんを大きな鍋で煮ますの。上野にある、とってもおでんのおいしい店から教えていただいたものなんですけど。
そんなものをくりかえしあきもせず出しているんですけど、みなさん、うちへ来てチマキが食べたい、っておっしゃいますね。
舞台が終わってから遅れていらっしゃるかたなんか、“女房に持って帰るんだ、チマキ!チマキ!”なんておっしゃるので、最初から少し、隠してとっておかないと・・・。(笑)」
やがて深夜にパーティーが幕を閉じる。と、必ずその何人かは泊まってゆくことになる。夜が明ける。客が起きだす。が、前夜の疲れでお手伝いさんはグロッキーだ。しかし友季子さんは疲れも見せず、客に朝食を供すると、車を運転して自由ヶ丘の駅まで送りとどけるのである。

昭和7年、名古屋で生まれた。旧姓・森田。姉、弟と3人きょうだいの真ん中。生家は代々、劇場に立てるのぼりを染める商売を営む。仲ノ町国民学校、県立第一高女、明和高校から県立第一短期大学へ。昭和26年、新東宝のニューフェースになって短大を中退、芸能界に入った。
昭和32年3月15日、天知茂と結婚、新橋倶楽部で披露宴を行なう。翌33年6月4日、長女・千香子(ちかこ)さんが生まれ、38年11月25日、長男・敬貴(けいき)くんが生まれた。
*お子様たちの名前が違うのも同じく気学のせいか (「五十年の光芒」だと、「千景」ちゃんと「慶」くん。ただしワイズ出版の本では「敬貴」くんだった)

短大を中退し新東宝の新人女優に

生家の祖父は土佐派の日本画家で、人形浄瑠璃もやる粋人。祖母も叔母も踊りの師匠という芸能一家で森田家にはいつも芸人が大勢出入りしていた。そのうえ家業(旗屋)の関係で友季子さんは子供のころから御園座へよく遊びに行き、小学校1年生のとき、故・小川虎之助(役者)などにかわいがられた。長じて芸能界に入るべき下地は十分だったわけだ。
「私たち、戦争中だったので小学校の卒業式をやらなかったんです。それで一昨年、31年ぶりに小学校の卒業式やりました。もう亡くなったかたがいたり、大きな会社の社長さんがいたり・・・私なんか、子供のころはいまの娘(千香子さん)のようにやせておりまして、細かったんですけど、でもおもかげってのはあるらしいんですね。先生がよく憶えていてくれました」
中学から高校にかけて水泳が得意だった友季子さんは、ダイビングの国体選手だったほどの腕前。短大へ進んで演劇部に所属したが、新東宝のニューフェースに推薦したのは演劇部の上級生たちである。
全国各地の予選を通過した人たちが東京に集まって最終審査を受けた。これで合格したのが男4人、女14人。名古屋から選ばれたのが天知茂と友季子さんのふたり、大阪から選ばれたのが高島忠夫である。
これら新人たちは新東宝の委託生として半年間俳優座にあずけられ、それから撮影所に入った。友季子さんの芸名は森悠子。
「いまでも印象に残る作品は、清水宏先生の『次郎物語』でちょっと女中の役をやったのと、あと『権九郎旅日記』で森繁久弥さんと田崎潤さんの相手役をやらせていただきましてね、田舎の女中の役をやったことかしら」
だが、もうひとつ友季子さんにとって忘れられない作品がある。それは『浅草の四人姉妹』(*『浅草四人姉妹』)だ。この作品で友季子さんははじめて役をもらったうえ、天知茂と夫婦役を演じたのである。それから5年ほどたってふたりは現実の夫婦になった。

天知の一言で女優生活を断念

「熱烈な、身をこがすような恋愛をして結婚をしたっていうんじゃなくて、なんとなく友達夫婦みたいな感じでいっしょになったんです。同郷ということもあったでしょうし、毎日毎日、学校のように顔を合わせていましたから・・・」
ニューフェースとして名古屋から上京したとき、友季子さんは18歳だった。うら若い女性が東京でひとり暮らしをすることを案じた名古屋の両親は、同じニューフェースの天知茂に後見役を頼んだ。年は彼女より2つしか上ではないが、20歳とは思えぬ落ち着きと豊かな知識を持つ天知を両親は深く信頼していたのである。
「主人はそのころから、ものすごい勉強家なんですね。もう本はよく読んでますし、映画のことは字引きのようによく知ってるんです。なんでも聞けばわかりますし便利なもんですから、私にとっては競争相手であると同時に、よき相談相手でもあったんです。
田舎の両親も“あのかたは落ち着いているから、なんでも相談するように”ということで、主人はまあ、後見役というか、相談相手として両親に頼まれていたんです」
東京で女優生活をつづける友季子さんの身辺にはさまざまなことが起こった。人間関係、金銭のこと、男女のこと・・・そんなことでわからないと、彼女はなんでも天知に相談した。
「結婚問題もいろいろありまして、主人に相談すると、“いやその話はよくない!”とか、いろいろ忠告してくれるんです。そうこうしているうち、なんとなく自然に主人の考えにそうようになってしまいまして・・・。(笑)」
こうして結婚することが決まったとき、友季子さんが女優をやめるかどうかについて、ふたりの意見は分かれた。そのころ、新東宝では男優よりも女優のほうが重宝に使われ、収入も多かった。実家のほうでも「子供が生まれるまでつづけたら」という意見だった。だが天知はきっぱり友季子さんに家庭に入るよう迫ったのである。
「主人はそういうところに非常に強烈な意見を持ってましてね、どんなに苦労しても、女房子供は自分が養うんだ、ついてこい・・・というようなところがあるんです。昭和1ケタなんですねえ。
最初は反対だった私も、主人の意見に従ったんですけれど、いま考えると、やっぱり、スッパリやめてよかったと思います」

家庭では子供に甘い父親の役

いよいよ結婚式の日取りが決まったが、天知はたまたまそのとき、嵐寛寿郎の『暁の三十六人斬り』に出演中だった。撮影の進行ぐあいによっては当日も撮影とぶつかる可能性がある。こんなとき、天知茂という役者は、自分の結婚式よりも仕事を選ぶ男なのである。
「その日が撮影だったらぼくは行かれないから、ぼくの写真でやってくれ、新婚旅行も行ければ行くけど・・・っていうんです。ほんとに役者しかできない人と結婚したな、とそのとき思いました」
新婚旅行は、電話一本でいつでも撮影所へとんで帰れるように京都から紀州白浜へ。さいわい撮影所のほうで調整してくれてことなきをえたが、ひょっとすれば友季子さんは、結婚式場でも、新婚旅行先のベッドでも、まるで遺影のような夫の写真片手に、泣きべそをかかねばならなかったのである。

テレビや映画では冷徹な男を演じることの多い天知茂も、家庭では、「わりとあったかい人」だそうだ。
「だいたい寡黙な人ですから、やっぱり家庭でも、あんまりものはいいません。お友達がいらっしゃいまして、演劇論なんかになりますとね、夜を徹してでも話すんですけど、日常のことはあんまりいいませんねえ。
主人の母がことし90歳で、まだ健在でおりますけども、その母が、私たちが結婚するとき、“この子はあんまりものをいわない子だから”って念を押したぐらいなんです」
だが、口数は少なくとも、家庭の中で、天知の人気はやはり絶大である。
「子供たちも犬も、みんな主人のひいきでね、主人についてるんですよ。小言をいったり、子供をしつけたりという役が私のところへまわってきますでしょう。主人は、なんか子供に買ってあげたり、いい役ですよね。
息子なんか、ひどいことをいうんですよ。パパとママが結婚したとき、パパがいやだいやだというのにママが押しかけたんじゃないか、とかね、パパは結婚は顔より心だと思ってママと結婚したんだろうとか、もう・・・。
それで私が主人にね、私の名誉のために、あなたが結婚してくれっていったことを子供の前でいってくれっていうんですけど、主人はなんともいえない顔をするだけで・・・。(笑)」
大学2年の娘・千香子さんと中学3年の息子・敬貴くんにとって、天知茂は甘い甘い父親である。

「理想的な夫婦じゃないかな」

役者の家庭、役者の子供という意識をもたせまい、ごくふつうの家庭であるように・・・というのが天知の一貫した考え方だ。だから家庭へ仕事を持ち込むことも、テレビや雑誌の前に家族をひっぱりだすことも彼はしなかった。
そして、一生に一度の結婚式に写真を身代わりに・・・といいだすほどの役者バカぶりは、今も昔と少しも変わっていない。
「“男がブランデーを傾けるとき”とかってCMの話がきて、その契約金は、私がワァ!なんておどろくほどの額なんです。でも主人は、自分がお酒を飲めないのに・・・って断るんです。“いや、殺人者の役やるから殺人してるとはかぎらないから”って会社のほうでおっしゃるんですけど、一般の視聴者をあざむくことだからって、断るんですねえ。自分は商売人じゃなくて役者なんですって。そういわれると弱くて。(笑)」

友季子さんは子供の学校の委員をやるかと思えば、革の手芸講座に顔を出し、夕飯どきまで奥さんたちとマージャンを囲むかとみれば、よそゆきの洋服はすべて自分で縫う、というほど器用な人だ。その点、「止まれば倒れるコマのように、休むことをしない」仕事ひとすじの夫とは対照的である。
「体つきだって、結婚前、主人は骨に皮がついてるような人で、結婚したらふとりたいといってたし、私はやせたいやせたいといってたんです。主人は望みどおりふとったけど、私は望みとは掛け離れるばかりで・・・ずいぶん正反対の夫婦でしょう」
だが、コマがわき目もふらずまわるためには、やはり正反対の奥さんが必要なのだ。

天知茂が外で見せるイメージと、家庭における彼とのあいだには大きな差がある。臼井家で彼に代わって、肩で風を切って歩くのは、彼の愛犬だ。ヨークシャーテリヤの、その名も“アル・カポネ”という。

●天知茂のひとりごと。
「なにをやるについても、彼女の才覚に任せておけばぜったい間違いない。ぼくのほうは仕事だけをやっている。そういう意味じゃ、理想的なんじゃないかと思ってるんですがねえ・・・」

【写真キャプション】
・なんでもこなす器用な奥さんだ(ストライプ柄のブラウスでほほえむ奥様)
・子供に甘い父親だそうだ(細かいドット柄のシャツにネクタイで照れ笑いしてる天っちゃん)
・2歳のころ(左は亡くなったお姉さん)(旅芝居の子役のような鉢巻き姿の奥様)
・天知の出演するテレビ番組を録画するのも友季子さんの仕事だ(床に座って録画の準備をしている奥様)
・自宅のパーティーでの天知茂一家(娘さん・天っちゃん・息子さん・奥様の順にならんで乾杯の音頭をとっている様子。よく見えないが旦那の服が派手)
・森悠子の芸名で新東宝の女優だった(当時のブロマイド)(チャイニーズ風)
・新東宝のニューフェースになったころの夫妻(奥様をそっと抱き寄せ、ふたりして彼方を見つめる爽やかカップルin夏の高原)
・披露宴に集まった新東宝の同期生(高島ぼんを含む男性4人・女性4人と勢ぞろい)

(2006年9月25日)
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