芝居と煙草週刊文春 : 1985(S60)4月11日号:54歳
けむりばなし(1) 天知茂
芝居と煙草
煙草というものが、我々人間の生活の中にいつ頃から定着したものか、その歴史の程は私は知らないが、今では芝居、落語等の世界から、かつての生活をうかがい知ることが出来る。歌舞伎の狂言の中には、煙草を重要な小道具として使ったものが沢山ある。それだけ芝居の中に登場するということは、それだけ当時の生活に密着していたということにもなるわけだ。
江戸の時代。吉原の遊郭では遊女の吸いつけ煙草というならわしがあった。遊女が恋慕の情を煙草に托し、先ず自分で吸いつけた煙管を客に差し出す。浮世絵などにもある赤い、そして長い煙管である。いやな客には絶対しないという、いわば売り物買い物の遊女の世界での、わずかながらも自由の表現であり、色恋を演出するすぐれた表現でもあった。吸いつけ煙草を貰った当時の粋人のほくそ笑んだ顔が目に浮かぶ思いがする。こうしたことが芝居の中にとりあげられ、それを知らぬ現代の人間にも充分理解出来るものとして今に生き続けている。もてる男、ふられる男をこれほど適確に表現するものはないからだ。歌舞伎十八番「助六」がそのもっとも代表的なものだ。助六対意休の対決が、揚巻という遊女を軸に、煙草という小道具によって、より効果的な高まりを見せている。
「煙管の雨が降るようだ」という助六の台詞は、天下の二枚目にふさわしい名調子だ。
又、落語では扇子一本でいろんな表現をするが、中でも煙管に見立てた指先の扱いによって、その人間の職業から年齢、性格までズバリ表わしてしまう。
つまり煙草というものが、それほどまでに人間の生活に根強く定着しているということだろう。(俳優)
*天っちゃんの煙草にまつわるエッセイ・第一弾(急逝するほんの3ヶ月前のもの、というのが泣ける)
*お江戸に生きていたらきっと星の数ほどの遊女から吸いつけ煙草もらってるクチだろうな
(2006年10月18日:資料提供・naveraさま)